ミツバチと情報伝達化学物質(セミオケミカルズ‐Semiochemicals)
はじめに
一匹のミツバチに刺された後は,引き続き攻撃されやすいことは養蜂家なら誰でも知っている。
これは皮膚に刺さった刺針に付いている毒嚢から発散される匂い物質によって、後続の警戒蜂が惹き寄せられるためである。
1959 年、ドイツの研究者によって蚕から繁殖行動に関わる性フェロモンが発見されて以来、化学分析技術の進歩・機器の発展と共に、1000 を越える数の昆虫フェロモンが見つかっている。
今日ではそれらの一部は合成され、もっぱら農作物や森林の害虫モニタリングの誘引剤として、あるいは彼らの繁殖行動を混乱させる環境保護型の農薬として実用化されている。
このように同じ種の個体間の情報伝達に関わる物質の外にも、現在、異種の昆虫の間にも重要な意味を持つ物質が次々に発見されてきている。(アレロケミカルズ=Allelochemicals.)
アレロケミカルズはその異種間の生物にもたらす影響の違いによって次のように分類されている。
アロモン(allomon) ------ 物質供給者に有益に、受給側の昆虫には無益または有害。
カイロモン(kairomon)---受給側昆虫のみに有益。
サイノモン(synomon)----両者に有益である場合。
セミオケミカルズとは、既知の各種フェロモンにこれらの全ての物質を加えたものを総称する。
ミツバチへの応用
QMPを含む担体に集まる働き蜂
ミ ツ バ チ に 関 し て も 近 年 多 く の 研 究 成 果 が 発 表 さ れ 、産卵・育児・集合・警戒・分封などの行動のそれぞれに、それを制御する各フェロモンが存在することが知られている。養蜂活動用に実用化されたものとして女王蜂フェロモン(QMP—Queen Mandibular Pheromone)、集合フェロモン(Nasonov Pheromone)がある。
前者は無王状態の群に担体を与えた場合、本物の女王蜂の代わりを一定期間務めることによって、群全体を安定させ、外役蜂の散逸と働蜂産卵を防ぐ働きがあり、我が国でも花粉交配用のミツバチに広く利用されている。後者は分封群や迷い蜂を惹きつける効果があり、空巣脾を入れた空箱と共に、これらの群を捕捉するためのトラップとして使われている。QMP にはその希釈溶液を散布する製品もあり、果樹への訪花促進剤として効果があると言われる。また、幼虫が出すフェロモンも、成蜂の訪花活動を刺激することが判り、製品化が図られている。
ミツバチヘギイタダニとセミオケミカルズ
① ミツバチの育児房の中で産卵した母ダニとその成長した娘ダニは、出房後、蜂の幼虫よりも成蜂により惹きつけられる。(何種類かの揮発性の化合物-未特定物質)
② その後母ダニは数日以内に、娘ダニは 1 週間余の成熟期間を経た後、蜂の幼虫体表から出る数種の物質に惹かれて産卵のため再び巣房内に入り込む。(脂肪酸エステル、パルミチン酸,炭化水素などを含む化合物が作用。)
③ 封蓋された房室内でのダニの行動もまた化学的な刺激に依存している。
特に蜂幼虫の繭形成期間中の誘引は、幼虫表皮に出る飽和炭化水素類に起因する。
ダニが体内で卵子を形成し、産卵をするためには、ダニは宿主のミツバチ幼虫の房室が封蓋さQMPを含む担体に集まる働き蜂れてから 12~24 時間以内にミツバチに接触しなければならない。しかし、この蜂幼虫との接触は、単純にそれだけで産卵が引き起こされるわけではない。蜂幼虫の抽出液がダニの産卵数を著しく増加させることが知られていて、おそらく何らかの誘引物質が存在すると思われるが、その物質はまだ特定されていない。
④ ダニに冒された幼虫に対する成蜂の衛生行動(除去清掃)は嗅覚によって,引き起こされるが、その物質もまだ判っていない。
おそらくダニと蜂幼虫の両方からの物質が関与していると考えられる。
⑤ ミツバチのライフサイクルに依存して繁殖行動をとるヘギイタダニは、そのライフサイクルのすべての日令において、これらの外にもさまざまな物質を利用していると考えられている。
⑥ 雄蜂の幼虫巣房には、2 倍以上の寄生率が見られる。
ミツバチ雄の卵から羽化までの生育期間は働き蜂のそれより長く、したがってダニにとって、雄蜂房に侵入することは、より有利に繁殖できる場所になっている。これにも雄蜂の幼虫体表から発散される匂い物質がダニを惹きつけると考えられている。
ダニ駆除のためのセミオケミカルズの応用
この目的のためにいくつかのパテントが申請された中で、唯一 Varoutest と呼ばれる製品だけが商品化されたが、野外テストの結果は満足できるものではなかった。多くの研究者達の努力によっていくつかのセミオケミカルズが特定されたにもかかわらず、ダニの
コントロールに使える道はいまだ発見されていない。
このような物質を使っての害虫対策は植物食の昆虫に対してはすでに成功しているものの、同じ戦略はミツバチヘギイタダニには適用は難しいかも知れない。へギイタダニは宿主であるミツバチの生物学的体系に、非常によく適応していて、その行動と生理的な反応は、宿主側の生理的条件がかかわる様々な要素にも影響される。そのため宿主との関係はより複雑で、両者間の化学的な情報伝達を理解することはかなり難しい。結論として、この課題についての知識はまだ充分とは言えないし、ダニの生態もまだ完全に解明さ
れているわけでもない。また仮にダニの生態に関与する化学物質の全体像が掴めたとしても、別の問題が解決される必要が生じるかもしれない。次のような事情が、この方法による駆除法の開発を難しいものにしている。
① ダニは多くの時を蜂にくっついた状態で過ごす。
したがって、彼らの繁殖相のスタートである巣房への侵入についても、侵入するダニのキャリアーとして、給餌担当の働き蜂がこれに加担してしまうことになる。それゆえ、もしダニをトラップするための誘引物質が開発されたとしても、それ単独では巣箱内で展開されるダニの行動に十分な影響を与えることができないかも知れない。
② ダニの産卵・交尾・生育を含めた繁殖過程が、ワックスの壁で外部から隔てられた封蓋房室の内部で行われるために、その物質をダニまで到達させることができない。
③ 巣箱内に投与された化合物はミツロウによって吸収される可能性がある一方、揮発性のイオン化学物質はハチミツに吸着されてしまうかも知れない。
ヘギイタダニ駆除のためのセミオケミカルズの実用化はまだ先のことのようにみえる。
しかし、ダニのほぼ全ライフサイクルに多くのセミオケミカルズが関与している以上、ダニの生理上、ピンポイントで、かつ最も効果的な物質を作用させることはできるはずである。チモールなどエッセンシャルオイルを利用するダニ駆除法が一定の成果をあげている。強い匂いを充満させることで、基本的な行動を支配する匂い物質の判別を妨げて、混乱を生じさせているものと考えられている。さらなる研究が進められなければならない。